銅版画 -玄工房- 岩佐なをによる詩と版画の世界

玄工房、岩佐なをによる詩と版画の世界

版画をつくる、詩をつくる。

版画のドキドキ詩のイライラ

 めくる時、一番ドキドキする。スカートではない、版画のはなしである。
  版画づくりの工程で、ときめきの頂点は、第一回目の刷り。銅版画で言えば、インクを詰めた版を印刷機のプレートに置き、上から用紙をかぶせ、ローラーを通して刷り上げる。そして「さぁ、どんな按配かな」と紙の端を摘まんで、めくり上げるように銅版から用紙をはがす。昂奮、最高潮。まず画面全体のトーンが目に入る。全体的に濃いか薄いか、それは濃すぎるか、薄すぎるか、ちょうど良いか。次に細部はいかに。微妙な線が表現されているか。線が腐蝕する段階で時間をかけ過ぎて、無闇に太くだらしなく崩れていないか。点で描いた部分は効果的か否か。こうして初めて刷られた図を凝視する一時が最もたのしくうれしく、ときには慌てる、緊張に充ちた寸刻なのである。
  この第一回目の刷りでいつも感じることは「版画は刷ってみないとわからない」という思いだ。もちろん、版画を創る折に、刷れば左右が逆になることや、調子のつけ方、腐蝕液の濃度と腐蝕時間、用紙の種類とその特徴などなどは、四半世紀携わっているので、だいぶ修得しているつもりである。腐蝕後の銅版面を鏡にうつせば左右転じた図柄の様子も把握できる。
  しかし、刷ってみなければわからない。大きく狂う失敗はないが、微妙な部分で様々な思惑外のことどもが起きている。陶磁器を窯から引き出す折の陶工も同様の意外性とスリルを感じているのではないか。予期しえなかった細部が生じるおもしろさとふしぎさを第一回目の刷りは感得させてくれる。これは私にとってひとつの妙味である。(もちろん、版画家には、刷り上げた時は常に予定どおりという作家もいる。それはそれで優れた技術だと思う。偶然が入りこむ余地のない作法を貶すことなどできないが)
  さて、第一回目の刷りを終えて、版面に起こっていた思惑外の状況をどうするかが次の問題となる。そのまま活かして大成功、これはありがたいことで版画のかみさまから吉事を賜ったおもいがする。不都合が発生していた場合はいろいろな手立てを講じなければならない。弱かった線を今度はドライポイント(直接ニードルで銅板を傷つける)で強くする、広すぎた空間に液体グランド(防蝕液)を塗り描き足して再度腐蝕する、逆に太くなりすぎた線や幾分暗い部分の版面を工具で叩いたり潰したりし、手を加える・・・・・・。こうした調整も版画づくりのやりがいであり、工夫と腕の見せどころであり、大切な作業といえる。そして二度目の刷り、さらに修正して、三度目の刷り・・・・・・と続けてゆくうちに、ついに決定版ができ上がる。その後の刷りでは、インクの色や紙の種類を変え、一番図柄に似合ったものを見つけ出す。ここまでくると、あとの刷りの作業は、注意深く一枚一枚を見すえての根気仕事になる。
  どんな絵を描くのか、どんな版画を創るのか。近年、私はふたつのシリーズを構えて銅版画を創作している。ひとつは「塔のシリーズ」もうひとつが「幻獣図鑑」。ここ五、六年は、自分が想う塔と幻獣をあみだしては小版画に仕立て、歩みはのろいが幾分作品が溜まりつつある。時期がくれば、それぞれのテーマで個展を開くつもりだ。
  ふだんは机の上に、小型スケッチブックを用意して、思いつくままにエンピツや水性ボールペン、筆ペン、色エンピツなどで気にとめた象を描いている。その日見た景色や物体などで印象に残っている有様を記憶で画いたり、目の前に在る小物をデッサンしたり、時には何を形づくる当てもなく線を引き点を置く。線と線の間を色エンピツで塗る。人面で蛇体の生きものを突発的に描いてみる。そうしてできた多くのデッサンの中から、銅版画に用いるものが選択されたり、されなかったり。

 詩をつくる過程ではドキドキする場面はない。書き始めれば、淡々とすすめるよりほかはない。始めるまでが大変だ。クルシミ。
  書き始める前は、何を書いたらいいのか途方に暮れて、イライラすることが間々ある。同人誌や雑誌の締め切り日が近づいてくると(ダメ。何もおもいつかない)と焦りながら、部屋の掃除や本の整理整頓をする。逃避である。散歩や体操、拳闘観戦、競艇で散財などしていると、にわかにポツ、ポツと感性に届くイメージや言葉が降ってくる。それは、雨の降りはじめの二、三滴のように。幻のように。
  絵(版画)との関わり方とは違って、スケッチブックにデッサンを描いて溜めておく作業に類することを、詩の場合にはしていない。たまに、家で夜遅く酒を飲んでテレビを見ていると、後々詩に使えそうなフレーズが頭にプケッと浮かんできて、急遽メモすることはある。次の日、読んでみるとだいたいが意味稀薄だったり、笑えるほど陳腐だったりするのだが、十回に一度くらいは使えるものもある。通勤途中や勤め先での仕事中は全く何もひらめかない。図書館勤務などしていると、何か想い浮かんできそうなものだと自分でも考えるのだが、浮かんでこない。業務に没頭している訳でもない。
  詩は、自宅の自分の机に向って、夜イライラしながら書き始めることが圧倒的に多い。心静かに机に向えることは少なく、小学生の頃いやいや宿題をする(するというより当時は先生や親にさせられていると感じていた)時の気分に類似している。「イヤならやめればいいんだ、楽になるぞ」という声も聞こえないではないが、一度「書く」と約束をしておきながら雑誌に穴をあけたりすると、義理がたたないし、人間関係でゴタゴタするのは一番面倒なので、「書きます。」 しかし、案外書き始めれば、滞らずに書き終えることも?々あって、書き上がれば実に清々しい気分に変わる。この水底から浮上して天まで昇ってゆくような快感が、自分に詩をつくらせているのかも知れない。(それだけではないけれど)
  今、詩を書く若い人のほとんどがパソコンを用いているようだ。私も勤務先ではコンピュータを使って仕事をしているので一時期キーを叩いて書いたこともあるけれど、また手書きに戻ってしまった。散文は明らかにパソコンの方が便利だ。詩は、私の場合長くても原稿用紙五枚程度なので、清書するにもそれほど時間はかからない。ただ、最近の作品を添付ファイルで五、六篇送信して欲しいなどと言われると「パソコンで書いておけば楽だったな」と思う。
  まず反故になったコピー用紙の裏などに詩を書きつけてゆく。このとき新品真っ白のコピー用紙ではいけない。何ひとつ汚れのない紙に書くとなると、そこ一面自らの手で文字を埋めつくさなくてはならないという強迫観念に圧し潰されそうになるから。使われた紙の裏だと気楽だ、この気楽さが導入部では大切だ、数行書いてうまい具合に運ばなければ、丸めて捨てればよい。B5の大きさの紙に5ミリくらいの文字をシャープペンシル(芯の固さはB)で書き込んで、十行を越えてくると「ナンダカ、イケソウ」という光明が一筋差してくる。書き初めから終わりまで円滑に流れることもあれば、途中途中で数行挿入する場合もある。また、書き出し部分だった前にもう一節を付け加えることも。タイトルは、詩文が完成してからつけることがほとんどだ。タイトルを決定した時点になってようやく自分が何を書きたかったのかが明確に認識できたこともあった。下書用紙になぜか詩とは無関係な絵を画く癖もある。
  そして反故の裏側にできあがった作品をいよいよ清書する。用意する原稿用紙は決っていて「ライフ原稿用紙四百字詰五十枚(縦書用・B5判)一冊二百五十円也」。詩の清書の時だけ万年筆を用いる、ペリカンのあまり高価でない中位の太さの字が書ける一本を十数年使用している。これは随分しっかりしていて今日まで怪我や病気を一度もしたことのない漆黒のペリカン。インクはモンブランの黒。(葉書や手紙を書く折は、万年筆ではなく黒インクの水性ボールペン0.5ミリを使っている)一文字一文字楷書でできる限り丁寧に書く。必ず子ども時分に習ったペン習字の教室を想い出しながら書く。ここに至っては、もはやイライラしない。
(2004.9.29)
『岩佐なを詩集:現代詩文庫178』(思潮社 2005.6刊)より

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