荒川
あれ川はいまおとなしく流れている
川岸の地面に耳を押し当てて
流水の機嫌をうかがう
○でも×でもなくやや○にちかい
△が耳をつついてくる
痛くはない、かどが丸いので
日没まぢかの土手を老夫婦が西へ還ってゆく
握った札をかぞえながらこれから遠くまで
「よぼよぼ」とゆく、暗黒になっても
しかし生死生と裏がえれば
「よちよち」進む、ようになるだろう
たそがれ色に透きとおった風が
手もとから札を散らして
はらりはらりの景色なり
さようならといってらっしゃいは、
だいたい同じだ。
老父母を見送ったときは枯草原の
ただ中で後ろ姿がくすぶりだしたと思ったら
ぽうとひとがたの火になって消えた
いってらっしゃいと言う機を逸した
そして野火がひろがり
空も少し焼けた
いまどきめずらしいけれど
酒を充たしたひょうたんを出して
蕎麦猪口にだぶだぶだぶと注ぐ
このひょうたんは昔三吉の掌になじんだこともある
番傘を開いて堤側に立てれば
川原に家が建った気分だ
友は空から降りてきて
温い羽をたたみ三歩寄っておじぎする
一献
よくきたね。
言葉なんか通じないんだがね。
佇ってないでまぁ一盃どうですか。
長い嘴はストロウのようにはつかえず
二回ばかり猪口の底をつつく
それからすらりと伸びた首を反らして
天をあおぐ
つられて天を見やると
今晩の星座が徐徐に描き始められ
星星のまなこに灯が入れられたところだ
上流から
別の客人が透明な姿で
泥舟に乗ってやってくる
ひとり、またひとり
次つぎと舟はやってくるけれど
すぐそこまで近づくと泥舟は溶けて
水中に沈んでしまうのであった
音もなく客人も消え
もののあはれを語りなさんな。
と自戒めいたひとりごと
でも、
鴫さん。
しきたつさはの、いや川原の
傘の柄と鳥の脚
地平のかなたからは
う音便で風が鳴く
夢の景観
眠れないのですね、
眠れる方法を伝授いたしましょうか。
目を瞑って。ひとの貌を浮かべてはいけません
この世に降りてから見てきた中でとても
好きな景色を想い起こして(ほら、いいきもち)
ゆっくり深く呼吸すること
浦上玉堂の山水の内に入りこんで
再び戻ってこなかった男もいましたね
まれに帰れぬ散歩もあって
それはそれでいいではありませんか
子ども時分おつかいに出されたあの路は
暮色蒼然とうらがなしく
ゆく手の西側に桜古木一本
満開の花が散り初(そ)めはらはら
はらはらはらと落花吹雪を視上げれば
身の丈一尺のおじいさんが額に汗して
小枝を揺すっていましたっけ
枝から枝へ軽業のように渡っては
下界に花びらを散らす仕事ぶりを
おつかいの品も忘れてほれぼれながめていると
ぴちゃ、東側に流れるどぶ川からぴちゃんっと
鰐が尾で水面を叩く音(嬉しい仕草)
腥い春風(花つもる鰐の背のにおいかも)
が鼻孔をくすぐるのでした
来し方をさっぱり忘れて
行く末を気軽に左折すると
もはやひきかえせぬ遠いところ
けれど
「成仏させないからね」というあちらの
涙声が聴こえることだってあるのです
夢の春景に誰ひとり見あたらなくとも
瞳を凝らせば必ずみつかる
ぼよぼよした例の影