霊 岸
よばれている。
伝わってくるものは音でも光でも振動でもない、では匂い、うーん(考)、やはりちがう。
じゃあ、どうして呼ばれていると判るのか、 わからない、が、聘ばれている。
「気がする」ってそんなに貶まれる判断理由ではないよ、ね。
よんでいる。
先方の居所は霊岸であろう。どなた様かがわからない。
水に沈んで金属や骨の堅さを有つ冷たい御方らしい。
そうだ(前世記憶残存片 壱)。
あおいがよおく焼けて、その骨を町屋葬祭場で拾ってやったとき、
艶のあるずっしりした他者の御骨が混じっていた、正体は添わせて棺に納めた一体の人形の骨格の一部で
陶づくりのものだった、異物に、恥かしさを感じ、でもあわてないふりの手つきで、
あおいのすかすかの骨骨に紛らわせて自家製の壺に異骨を隠した。いっそ「撒骨がいいと思いませんか」
よばれた。のなら応えるのが挨拶というもので。
住み処を出る。この大川永代附近川底番外地横穴をいでて、
鰭で 脇腹の鱗を撫でつけ自慢の髭で淡水を嗅ぐ、水の流れは、月齢は、 花は、散華は、こころばえは・・・
風を語ろうにも鳥を詠もうにも無学なために果たせない、なっさけない愚魚さ。ただ魚の目に泪はないね。
水底からの階段がある、ここで前世の形体を授かる、しゃなりしゃなり、化けながら昇ってゆく、
川から上がるといい按配に小糠雨降り、ひとっこひとりいない河岸の浪漫。石の街。
歩きはじめは靴からがっぷがっぷと水が零れ歩道をさらに濡らしてしまう。
ひとに出くわしたとしても彼らに正体を発かれるわけがないから怖くない、ひょいと避けてやればよいだけだ。
名犬は困るがこの街にはいない、賢猫も。水から上がると足が濡れていることが気色悪いのだから、
げんきんなものだ、化ける前には脚はなかったのに。そうだ(前世記憶残存片 弐)。
まだヒトだったころ、「赤丸病院」むりやり退院の帰り路、淋しい霙にサンダルをつっかけた素足が濡れて凍えた。
鼻緒が甲にくい込み街あかりすべてが尾をひいて斜交いに流れていた。
くたびれた紙袋にわずかな生活道具をねじこんで提げつんのめりながら途中迷いに迷って(薬のせいだ)
小一時間歩いた、安アパートへ辿り着き玄関先でぼそっと死んだっけ。――
よんでいたのは。あなたですね。
霊岸橋の欄干に凭れて運河をのぞくと苔色の水はとろみ、その底 にくるまのなきがらが沈んでいた。
うらめしげにひしゃげたリヤ カーの残骸。
くるまの黒護謨はただれふやけぼろぼろ襤褸襤褸の 海藻を想わせるつぶやくような泡。道具もひとりじゃ淋しいね。
現世の姿を得、水に入って尾鰭をこすりつければなぐさめくらいにはなるかな、
黒い鉄骨の間からきこえるおも念いの強いものが たりを聞くよ。呼ばれて駈けつけても、
なにも助けにならないことは多い。首肯くだけでいいのなら橋上でしばらくは聞いているよ。
リヤカーにも一生涯があり忘れられない光景を秘めて水底で 迷っているのだろう。
――三丈(みたけ)さんが、あたしにダンボールを載せて引いていたころ、自動車は夥しく増え続ける時代であり、
坂では幾度も背後からいらだちの警笛を浴びせられた。(シロよ、おびえなくてもいい)
素朴な代々混じり気ばかりの複雑な血をめぐらせた老犬は 側で眼をきょときょとさせ、無念、
何も 手伝えなかったが。<三丈さん、坂はのぼりもくだりもつらいね> シロは仕方なしに尾を振り続けていた、
むなしいが応援のようで もあった。一歩一歩あたしを引く三丈さんの足には垢がすごいし、
体調の悪いあたしは軸が軋んで苦し気な声をもらし、先ゆくシロは哀しいけれど澄んだ
眼差しを前方へなげかけていた。
上手に負けを呑みこんで 老練な強かさを身につけたシロ、と、三丈さんの しなる痩躯、その影。
ぐっすり眠るのは死んでからだ――三丈さんと離別して四年目の春、くるまは霊岸橋の脇から突
き落とされた。
柳の新芽あおく、桜の蕾はふくらむ季節だった。それから、 浅く眠っては淡く覚め、水門の開
閉をながめながら朽ちた。
よばれたからには。
つるんと零れるように橋から身を投げた。
どっぷん、通りがかり の人間には空耳にきこえるべし。
現世の姿に変化し、水中でやわらかく一回円を描き、南無、くるまの骨のすきまをゆっくり縫って泳いだ。
(きっと成仏できるよ)水門を抜け右に折れ日本橋川を流れにのって奔れば大川に出る。
その大川の底にも鎮まった器物や道具がやすらかにぐっすり眠っている。
海辺の墓地
この黒色土の丘に亡き大工の友人が片手間に拵えた折りたたみ椅子を
据え「えんや」と坐って青海原をながめる。快晴を映した昼の宇宙の一
枚鏡。割れない、裂けず、砕けない。間遠い波がしらが恒星の瞬きに似
た合図をよこす。おおよそわるい報せではないだろう。水平線にやさし
い表情の貌が並んでいる、そんなはずはない、ない、こともない交感の
午后である。
登り坂の小径の脇でもいだ柚子を強く握る、爽やかな黄の夢が鼻孔か
ら潜って脳髄を湿らす。おもいで、と云うより、鮮やかに見い出される
過去のつながり、と、そのあらまし。笑顔が次次と碧空に浮かび上って
は滲み消えてゆく、海は海のまま、昼空は夥しい星星を匿って。
大工の墓には柚子が供えられ、母の墓には蕾の山茶花。その先を右に
折れて、水を汲むところ。桶いっぱいの清らかな冷水を墓石に注ぐと石
は黒黒と光りはじめる。死びとが渇いた咽をごくごくごくごく鳴らして
水をたらふく飲んでいる。普段は海から海綿童子が墓の世話に来てくれ
る。雨の日、童子は水分を含んででぶでぶになり身動きがとれないので
来てくれない。
椅子を開いて墓のはずれでまた坐る、この頃疲れやすいから。毛並の
美しい白い日本犬が笑いながら近寄ってくる。墓守りの、いいやつだ。
頭を撫でられる距離には来ない、背をこちらに向けて坐り海と空を見て
いる、らしい。そのうちいねむり。
ほら、青空にも流れ星。
柚子は先程より少し朽ちた。大工の名と母の名と行方を知らせぬ女の名
を小声で呼んでみよう、として、呼ぶ順序を迷ったので止めた。胸の中
の星座は日毎に形を崩しはじめている、兆し。身重の女が蝙蝠傘を杖に
して墓への石段をゆるゆる昇ってくる。
知ってるひと。と犬が尋ねる、
知らない。
ひとが死に遭うことはそんなに哀しいことではない。
犬は。
犬も。
みなとの月
蒼霧のような気配を伴って
極上の香りの漂う港町をさまよった
匂いは金木犀のようでもあり薄緑の潮風のようでもあった
ジジジっと脚を引かれて路地に嵌る
この辺りでは壜の牛乳が毎朝配達される
(牛乳壜の紙蓋を蒐めて、忍者ごっこの時手裏剣がわりに飛ばした)
ことを気配に話しても何も応えない
だが
ひとりのようでひとりではない
証拠に
玄関先に繋がれた大赤犬は二人分の気配を感じとって
お愛想の尾を振った
堂々路地中央を歩んできた黒猫王子は私こそ
無視したがつれには道をゆずった
牛蒡を醤油で煮る匂いがする
季節はずれの紋白蝶
滞ったふうに見える運河の水
流れはじめた感情に銀色の魚がきらめく
だらだらゆるい坂を登りきると
正面の長い金網の向うに港の海が展がっている
目にしおからい海よりの光
光の上を巡視艇が沖へ辷ってゆく
その後から鳥、鳥、魚船
(軍艦をば視てると目が潤んでくると云ったじいさんもとうに死んだ、自衛隊の艦はチャチだとも云ってた)
官能的な湾曲の入り江に精虫っぽい小船
うようよとして
ああ、やるせない散在だ
右手の公園の叢では
朝晩の冷えこみと寿命のために
秋の虫死屍累々
こらえているやつだってそのうちね
虫の息の虫だらけ
(自分だってあやういと思え)
という気配が濃い
(わかっている)
ふりかえるともちろん誰もいない
もう一度ふりかえって
顔をあげると
ひらひら薄手の月がのぼってきた
秋分の笛
子供が奏でるたて笛にしては巧すぎる
音色が渡ってくる
大人のよこ笛なのかもしれない
秋分の夜陰の奥から
秋を分けてしのびよる笛の声
はおはおひういい
我家には準家宝として
「骨笛」が伝わっているけれど
だれも吹けない
高原亜細亜を駆け巡った豪傑の
大腿骨で拵えた
白い管楽器
鳴らそうと試みる者の唇に熱く
火傷した口を噤めば二度と開けないと云う
だから怖くて
だれも吹けない
はおはおひういい
おんなののど笛なのかもしれない
庭の金木犀はゆるされないほど早く咲き
鶏頭はまだ萎れずに暗闇に佇っている
こびとも
いや、こいびとも
いやな目をして佇っているはずだ
窓を開ければ知れることだが
笛の音や木犀の精香や
鶏頭のうらみやこいびとが
夜陰に乗じて次次としのびこんできては
かなわないから
しっかり鍵を掛けて
額から眼の周りにうっすら汗して
眠ろうとしている
指先ばかりいやに冷たく
呪文を唱えたいが
何と呟けばよいのか
(はおはおいひういい)