幽冥から
鎮魂のためでもなく
やすらぎのためでもなく
旅嫌いのはずがひどく山奥の温泉に
入り込んでしまった八月雨降りの宵。
二日前、朝の散歩途中
近所を流れる灰色の川っぷちで
まびかれてたどりついた
スポンヂのような仔犬を見た。
さっきはさっきで
誰も乗っていない手づくりのブランコが
ひとりでに揺れていた。
通りすぎてから気になって気になって
もどってみるとブランコに一匹のきりぎりす、
風のせいばかりではなかった。
温泉宿の部屋は天井が背丈程しかなく
畳が格闘のあとみたいに荒れはて
全体に醤油で煮しめた匂いがする。
ざあざあ
雨には槍も混っている。
山の宿屋の傍らにはどこも必ず川が走っていて、
槍もぐわらぐわらと歌って下ってゆく。
いつでも
どこでも
決して一睡もできずに生きてきた私は
暗闇のふとんに膝をかかえて
「今生きていたら自分は
何歳になっているのだろうか」と
指を折っている。
こいびとやともだちが欲しい。
湿気った燐寸を何本も折りながら
ついに炎を煙草にうつしてやると
薄荷煙草のくせに
指の焦げる臭みがある。
けむりを肺から
思いのたけ吐き捨てると、
夜の川の音が
ひたりと止まった。
伽羅蕗
早朝の憂鬱を慰めながら
血が通ってるみたいに活きた髪を梳いてやり
人々の流れに妹を送り出した
雛流す仕草で
いってらっしゃい、
地獄へ。
それから
昨晩飲み残した舌に痛い酒を呷って
蕗のすじをとった
子供の頃母の煮る蕗の匂いに
脳がむくむようなめまいを感じたのに
今は自分で蕗を煮る
母が死んで私は「息子」ではなくなった
兄が去って「弟」を失い
友人が倒れて「友」を外され
しだいしだいに
私は誰でもなくなってゆく
ただ
ひとつの救いは
残された者も
誤配なく死を拝受するということ
不死のおそれからはまぬかれる
安堵のねむり
千年も万年も蕗煮る匂いに悩み
醤油を加減し
味をみ火を止め
火をつけ
いつまでも私ばかりが
残されるなんて
(よしてほしい)
ふりむくと
うしろ手に縛られた咎人が
ひったてられて行く
テレビを
消(き)る